本書は、シンポジウム『延藤安弘とその仲間たちの<まち育て>』をベースにまとめられたものである。京都大学での研究活動を皮切りに、熊本、名古屋、千葉と仕事の場を移しながら、全国を歩き回った著者の精力的な活動の一端を感じることのできる本でもある。
かつては、コーポラティブの伝道師と称され、その後は「柔らかなデザイン」による参加型まちづくりのファシリテータとして第一線を走り続けてきた著者と私が初めて言葉を交わしたのは、80年代の後半であった。川崎市で開催された見学会の帰り、京浜東北線で隣に座り、しばらく話をさせていただいた。「あなたの考えていることは、面白い」。「そういうのは、文章にしたらいい」。焼き肉とドブロクで心地よくなっていたとはいえ、そう言っていただいて、若輩は舞い上がった。そしてしばらく後に、著者が編集を担当する建築雑誌でコラム執筆の機会をいただき、今度はシラフで舞い上がった。
以来、さまざまな場面で著者とはおつき合いさせていただいてきた。仕事の都合から、「仲間たち」に参加できずに寂しい思いをしていた私であったが、本書の書評を依頼されることとなり、20年ぶりに舞い上がっている。
現在、私は、東北各地で『まち育てのススメ』というタイトルの講演をさせていただいている。右肩あがりの時代に、次々に新しいフローを生み出し続けていたのが<まちづくり>であるとすれば、今や地域に埋め込まれた多様なストックを活用する時代である。ややもすると、ストックは歴史的資源として保存対象ととらえられがちであるが、私が<まち育て>に込める意味は、育てていく対象として、現在進行形の事象としての動的ストックである。しかもそれは、新たにフローに変容するポテンシャルを内在させているのである。
この創発的メタモルフォーゼを生み出す力の一つとして、著者が40年にわたって伴走してきた「参加」がある。「参加」とは本来、ストックを育てるためにあるのではないか。ストックをフローに変容させることのできる場面に「参加」は存在するのである。
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著者の研究生活の集大成としての意味合いが、本書にはある。しかし、延藤安弘は一時も止まっていない。彼のそのスタンスを表現する英文が、第一章の文末に存在している。
This is not the end ... it’s just the beginning !
<まち育て>とは動的なものであり、かつエンドレスである。だからこそ、行政ではなく住民が担うことのできる領域なのである。著者は、現在、<まち育て>から<縁側>に、フェーズをシフトさせた。<縁側>は、閉じたシステムに陥りがちな地域社会を、開いた系にするための仕掛けでもある。ここで発生する相互浸透的現象は、まちを育てるエネルギーに変わっていくはずである。著者が本書につけたタイトルは、まさにそれを物語っているものであると、私は確信している。
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