本書は、川と海と大地、をめぐって培われてきた地域の生活・歴史・文化の空間が持つ、現代的意味の再発見を主題としている。
桑子敏雄が本書で提唱している「空間学」には、行政とその工学を既成の閉じた檻から解き放ち、タテ割りの体系枠をヨコにつなぐ視点がある。本書の7人の著者の専門分野は、人文系の哲学、宗教学、文化人類学、理工系の建築学、土木工学に及ぶ。この多様な視点からの新たな価値の発見と創発的方法が試みられている。彼らは単に知的冒険に留まらない実践への取り組みを始めてもいる。
その方法は、「日本的知的資産」をいかし「地域空間管理の知恵を掘り起こすという作業を通じて、地域社会に蓄積された非数値的で、非文字・図像的な知、地域が伝承や習慣によって、蓄積している知の意味を明らかに」するものである。
目次の枠組みは、2部構成である。第1部「方法としての空間学」は、各専門領域からのそれぞれの方法論の展開である。第2部「空間構造を読み解く『龍宮からの贈り物』―環有明海の地域づくりに向けて」は、佐賀平野の川と海と大地に絞った本書白眉の読み解きの展開である。
さて、読者の皆さんには、第2部から読み始めることをお勧めしたい。佐賀平野の空間構造から始まる興味溢れる話題が尽きないからである。北の背振山地から、城原川、嘉瀬川等の中小河川と佐賀市を中心に農耕平野が展開する。
河川の下流域は潮の干満の激しい有明の海が生む汽水域の水田地域となる。この地域の永い歴史が培った河川環境整序の仕組みは、実に巧みである。例えば汽水を活かす潅漑技術「アオ水取り」は、農業と共に、祭事にも欠かせない。
多様な視点からの接近と共に、地域には民俗的な宗教空間がすみずみまで広がり、日常の生活と祭事とが実に興味深く組み合わされ、一つの小宇宙をなしていたことが明かされる。
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明治維新の文明開化から20世紀の経済成長、公共土木の進展により、この小宇宙は激変し、水循環系も改変を余儀なくされた。しかし、21世紀初頭に至る環境と歴史文化をめぐる学と知見の深化は、工学の再編を促し、失われた小宇宙の部分的再生を実現させつつある。佐賀、縫いの池の涸れた水面の復活はその予兆である。
1990年代後半からの嘉瀬川流域の象の鼻、天狗の鼻、石井樋を焦点とする土木遺構の発掘と再生工事は、空間学の生誕を告げるシンボルである。ここでは、江戸以来の水利の知恵、地域景観、そして伝承の社会知が総合されている。こうした現代的意味の読み解きを通して、本書は、空間学の内実を実証する書でもある。 本書が拓いた空間学が呼び覚ます感動と未来への予感が、本書を忘れがたいものにしている。必読の書として推薦したい。 |