【特別連載】復興へ! 東日本大震災:その1

2011/05

 
岩手県沿岸地域の産業復興の課題 ―持続可能な私たちの「未来」に向けて―
明星大学経済学部教授 関 満博(せきみつひろ)

 2011年3月11日午後2時46分、その時、私は岩手県釜石市の湾岸から400mほどの釜石ベイシティホテルの2階にいた。3時から始まる講演会の直前であった。突き上げるような地震がしばらく続いた。私自身の経験の中では一番大きな地震体験ではあったが、実はさほどのものとは思えなかった。とりあえず、外に出て周囲を眺めても建物にとりたてて被害は見えなかった。タイルが数枚落ちている老朽化した住宅、玄関の鉢物がいくつか落ちている住宅、その程度であった。外に出てきた人びとも、さほど慌てているようでもなかった。
 だが、ここは津波の本場の三陸。私はかつて大船渡郊外の谷の奥で、チリ津波の時、ここまで来
たという地点を見たことがある。海抜40mほどのところであった。そこから眺める海に続く谷一帯は狭く、津波は地形によっては数十メートルも登ることを確認していた。津波の高さを3m、5m という言い方があるが、適切とは思えない。陸に上がってからの津波は地形によって大きく変わる。数十メートルの高さに及ぶこともある。
 そのようなことを考えながら、ゆっくりと坂道を登っていった。釜石の市街地周辺全体の地形を頭に入れながら、標高20mほどを目標にした。さらに、上がり過ぎると余震による土砂崩れも気になった。程よい場所まで来て、そこで津波を待った。津波は私たちの100mほど前で止まった。私たちは旅行者であり、カバン一つで動けた。地元の人びとは家族、預金通帳、保険証などが気になり、避難が遅れたのかもしれない。また、阪神淡路大震災のような直下型で住宅の倒壊が著しかった時と比べ、地震そのものによる被害が少なかったことが、むしろ、人びとの避難を遅らせたのかもしれない。しばらくたって戻った市街地はひどいことになっていた。それは多くのメディアが伝えている通りである※1)
実は、私自身、自然災害に直撃されることが少なくない。この5年ほどをみても、2006年の7月19日には諏訪湖の氾濫に遭遇、長野県佐久方面への峠越えで土砂崩れに直面したことがある。また、2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震の際には、JR釜石線の宮守のあたりで列車に閉じ込められてしまった。さらに、震災後の産業復興支援では、阪神淡路の際の神戸市長田のケミカルシューズの復興にかなり長期にわたって関わり※2)、2007年7月16日の中越沖地震も多少産業復興に付き合ってきた※3)
   今回、土地勘のある岩手県で被災し、今後、産業復興に関わっていくことを強く意識している。ここでは、まだ震災後1カ月という段階で被害の状況がほとんどつかめないのだが、土地勘と現地から届くいくつかの情報を意識し、特に、岩手県の沿岸地域の産業復興に向けた留意点というべきものを指摘しておく。
早朝の釜石市街地の写真
早朝の釜石市街地の写真(2011.3.12)
2階の途中まで津波が来たことがわかる
2階の途中まで津波が来たことがわかる
-沿岸の大工場は縮小、工業集積は内陸
 現在でこそ、新幹線と東北自動車道が貫通する岩手県内陸の北上川流域は、半導体、自動車を中心とする工業集積地として知られるが※4)、それ以前、岩手県は「日本のチベット」「工業過疎」と言われ続けていた。40年前の1970年の岩手県を見ると、工業出荷額2853億円のうち、今をときめく県南(花巻〜北上〜奥州〜一関のゾーン)は959億円と全体の33.6%を占めるに過ぎず、むしろ、沿岸(宮古〜釜石〜大船渡〜陸前高田のゾーン)は1285億円と45.0%を占めていた。その頃までは、岩手県の製造業の重心はむしろ沿岸地域にあった。その当時、岩手県を代表する企業とは、釜石の新日鐵釜石製鐵所、大船渡の太平洋セメント(当時、小野田セメント大船渡工場)、さらに、宮古のラサ工業(リン肥料)の臨海型の3工場であった。実は、沿岸の諸都市は特定企業による企業城下町を形成していたのであった。内陸で目立っていたのは花巻の新興製作所のみであった。
 その後、臨海型、素材型の新日鐵以下の工場は縮小し、むしろ、北上を中心とする県南地域のハイテク工業化が進んでいく。その結果、2007年の出荷額は、岩手県全体で70年の9.2倍増の2兆6334億円に拡大している。全国的に見ても際立った発展を示した。工業過疎の岩手はこの40年で一気に北東北随一の工業地域に変貌したのであった。そして、県南地域の出荷額は1兆7077億円に達し、岩手県全体の64.8%を占めるものになった。逆に、沿岸地域は3578億円と岩手県の13.6%に低下していった。この三十数年で、岩手県における製造業の重心はかつての沿岸地域から内陸の県南地域に劇的に変わったのであった。
   この間、沿岸地域でも必死の努力が重ねられていく。宮古はコネクターのトップメーカーであるヒロセ電機や金型部品のパンチ工業を誘致、釜石の場合は、空圧機器のトップメーカーであるSMCの誘致に成功している。だが、全体的に見ると沿岸地域にはかつてほどの勢いはない。宮古から釜石、陸前高田に至る沿岸地域は、いずれも東京駅からの時間距離は5時間程度となる。従来から、宮古は「人口5万人以上の市で、東京からの時間距離が全国で一番かかる」とされていた。現在、岩手県の沿岸地域は全国の条件不利のひとつの典型的な地域といえる。
早朝の釜石市街地の写真
万里の長城ともいわれた田老の防潮堤(2008年12月)
-沿岸の期待を集めていた水産業
 他方、岩手県は日本の食糧自給率(エネルギー換算)で100%を超えている数少ない道県の一つである。2006年の数字で見ると、100%を超えているのは北海道(195%)、秋田県(174%)、山形県(132%)、青森県(118%)、岩手県(105%)だけである。まさに北海道と北東北は日本の食糧基地ということができる5)。特に、岩手県の場合は水稲の適地に乏しく、二戸市、久慈市等の県北の畜産、そして、沿岸の水産が重要な役割を演じていた。牛、鶏などの畜産は鹿児島県、宮崎県に次ぐ規模であった。また、三陸沖は暖流の黒潮と寒流の親潮がぶつかる魚種の豊富な世界三大漁場のひとつとされていたのである。
 さらに、リアス式海岸の湾は優れた養殖場となり、田老のワカメ(三陸ワカメ)、山田湾のカキ、アワビ、ホタテ、ホヤ、大船渡のメカブ、ホタテなどは、最高の三陸モノとして評価されていた。
   特に、近年は食の「安心、安全」の問題から、三陸モノに対する期待は大きく、わが国の近代産業、モノづくり産業が縮小している現在、新たな可能性をもたらすものとして注目されていた。2009年12月、岩手県は『いわて三陸海洋産業振興指針──「海の産業創造いわて」の実現を目指して』を発表、達増拓也岩手県知事自ら「三陸の『海』の資源を生かした海洋産業の振興は、県政の最重要課題であります県北・沿岸圏域の活性化のみならず、本県産業の発展を期す上で、大きな可能性を秘めている」と高らかにうたっていたのであった。
-三陸津波災害の産業的側面
  以上のような構図に対して、巨大な津波が押し寄せてきた。1カ月を経過しても、産業系ばかりでなく、住民の被害の状況もまだわからないのだが、これまでの訪問の経験と映像を重ね合わせると、その被害は尋常なものではないように思う。私自身がこの十数年産業振興アドバイザーを務めてきた宮古市についてみると、宮古湾と田老の養殖施設は壊滅、湾岸に設置されていた加工工場も流失したと報告を受けている。
 また、宮古の湾岸には輸入木材の合板工場が並んでいたが、これもすべて流失している。ただし、コネクター関係と近年発展していた金型関係の工場の多くは比較的標高の高い場所に立地していたことから、被害は小さいようである。例えば、宮古の誘致有力企業の東北ヒロセ電機、宮古パンチ工業ともに、3月24日までには生産を再開している。ただし、船舶修理などの鉄工所は古くから湾岸に立地していたため、ほぼ完全に流出しているようである。
 こうした点は、他の地域でもほぼ同様の構図になっている。釜石の場合には、私自身被災後の退避の際に外側から確認しただけだが、SMC、同和鍛造等の近年の進出企業はそのまま残っていた。沿岸地域の場合、もともと、海岸沿いに平地は少なく、古い工場は湾岸に沿って建てられているが、新たな工場は土地の制約から比較的高台に立地していた。
   その結果、全体的な構図として、各地域とも湾内の養殖施設は全滅、港湾施設、漁船も壊滅、湾岸の食品加工工場、船舶修理等の鉄工所も流出、そして、比較的新しい誘致工場は維持されたということになりそうである。このような構図を前提に地域産業の復旧、復興を進めていかなければならない。

田老漁港のワカメの加工
田老漁港のワカメの加工(2008年12月)も
流れてしまった。 再生を願う!

-見捨てられる中小企業

 さて、岩手県の三陸沿岸の諸都市地域の産業の状況は以上のようなものである。今回のような自然災害が発生すると、まず、人びとの生活再建が最優先される。それは当然のことだが、実はもう一つ地域にとっての生活を支える有力な市民として中小企業があることを忘れてはならない。特に、小さな自治体の場合は、ほとんどすべての職員は生活再建に駆り出されていく。産業振興担当の職員も例外ではない。路頭に迷う中小企業の経営者たちの相談の窓口もない。2000年9月11〜12日の東海豪雨で被災した中小企業の経営者は、「私たち中小企業には何の支援もなかった」(ヒサダの久田泰氏)と振り返っていた。
 また、仮に被害が軽微であったとしても、傾いた機械の水平をとらなければモノを作ることはできない。慌てて機械屋に連絡しても、技術者の大半は大企業に囲い込まれており、対応が相当先になってしまうことも少なくない。阪神の時には1カ月も待たされたなどが報告されている。中小企業が1カ月も仕事ができないとすれば倒産の危機に陥る。こうした事態への対応が地元自治体で難しいのであれば、県レベルでの対応が不可欠であろう。県の担当者が現地に乗り込み、経営者たちの「思い」を受け止めていかなくてはならない。事態は急を要しているのである。また、地元の商工会、商工会議所に期待される点は大きい。今回は、被害が比較的軽微であった茨城県日立・ひたちなかの中小企業からの要請に応じて、東京都墨田区、八王子市、岡山県津山市の若手経営者グループが、即座に要請された精密水準器、ジャッキ等を相当数被災地に送り込んでいる。そのような地域内、地域間のグループ化と交流が、私たちに新たな可能性を提示してくれた。
 こうした課題に取り組んでいる全国の若手経営者グループからは、次の課題は「支援受注」とい う話も出ている。被災してしばらく仕事ができない場合、発注先は他の企業に仕事を出してしまう。 ただし、被災企業が回復しても、仕事は戻らないであろう。こうした事態を生じさせないために、グループ間で支援受注を行い、回復した時にはキチンと返そうというのである。このような取り組みも、私たちのこれからに新たな可能性を感じさせるであろう。生活再建がいくらか軌道に乗り始めると、次は明らかに「職」の問題が意識されていく。人は「仕事」がなければ生きていけない。そのような意味で、災害時のテーマとして「職」の問題を見過ごすわけにはいかないであろう。

-条件不利地域における「復興」

  特に、今回は基幹産業であった水産業の復興は相当に難しい。あまりにもダメージが大きすぎる。三陸の各漁協の組合員の平均年齢は65歳ほどであった。90歳の現役の漁師もいた。特に、各地域の優れた湾内では養殖業が発達していた。それらの設備投資はそれぞれ1000万円ほどとされている。すべてを失った65歳の漁師が、再び1000万円の投資に踏み出せるかどうか。それは相当に難しい。大量に廃業が発生することが懸念される。
 だが、それでも三陸の場合、水産業を軸に復興を進めていかなくてはならない。津波に侵されたとはいえ、三陸は世界最高の豊かな海なのである。そのことを胸に復興に取り組んでいく必要がある。今後、考えられる方向は個々の漁師による個別の復興ではなく、漁協などが中心になり、共同体として新たな形を求めていくことであろう。その先駆的なケースとしては、海側ではなく山側でのことなのだが、地元産の柚子の加工品で見事な成果をあげている高知県山間地の馬路村のケースが示唆的であろう※6)。人びとの働く場を創出し、豊かな海産物を育て、付加価値をつけていくことが求められている。
 しばらくすると、復興のための土木需要が発生する。ただし、それらは数年のことでしかない。 働く場がなければ人は生きていけない。三陸は豊かな海と山に囲まれている。その豊かさをベースにした新たな「自立」した産業化が求められているのである。そして、今回の産業復興のテーマは「人口減少、高齢化が深まる条件不利地域における復興」ということになる※7)。それはすべてが拡大基調であった「20世紀後半型経済発展モデル」とは決定的に異なる。むしろ、「持続可能」な私たちの未来を指し示すものかもしれない。それは世界に例のないものであり、私たちの知恵と取り組みにより新たな意味を帯びてくることはいうまでもない。

1) 私自身の釜石での被災報告は、関満博「中小企業が地域再生の鍵を握る」
(『日経トップリーダー』 2011年4月)を参照されたい。
2) 関満博・大塚幸雄編『阪神復興と地域産業』新評論、2001年、を参照されたい。
3) 関満博「震災に立ち向かう柏崎中小製造業」(『商工金融』2007年10月)を参照されたい。
4) 北上川流域の工業化については、関満博・加藤秀雄編『テクノポリスと地域産業振興』新評論、
1994年、を参照されたい。
5) 岩手県の「農」と「食」については、関満博『「農」と「食」の農商工連携』新評論、2009年、
を参照されたい。
6) 馬路村については、大蔵昌彦『「ごっくん馬路村」の村おこし』日本経済新聞出版社、1998年、長
崎利幸「『村をまるごと売る』地域ブランド化戦略」(関満博・及川孝信編『地域ブランドと産業
振興』新評論、2006年)を参照されたい。
7) このような条件不利地域の「自立」と「産業化」については、関満博・松永桂子編『中山間地域
の「自立」と農商工連携』新評論、2009年、同編『「農」と「モノづくり」の中山間地域』新評
論、2010年、を参照されたい。

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