昭和6年に生まれた著者が人生の過半を過ごした「昭和という時代」のまちとそこに暮らした人びとの風景の物語である。日中戦争が始まり世の中が不穏になっていった時代から太平洋戦争、敗戦を経て昭和20年代末までの東京の「山の手」が舞台。家の中にモノが溢れる大量消費社会の到来はまだ遥か先であった。父が文士の伊藤家は、決して金持ちではなかったが、敗戦後の混乱期にも子どもが飢えることもなく、平穏な生活を送れたようである。
伊藤家は、杉並区久我山に自宅を建てるまで頻繁に引越しを繰り返している。中野区内を移動後、杉並区、世田谷区、都下(当時、三多摩の総称)の日野へ引越し、昭和28年に久我山に落ち着いた。それぞれの引越し先は、当時の「山の手」のまち風景を伝える著者手書きの絵地図が載っている。久我山の自宅は、谷口吉郎の弟子が設計したモダン住宅であった。内装にガラス板を活用し、台所にはシステムキッチン風の調理台が入るなど、当時としては大変先端な住宅であったために『モダンリビング』という住宅雑誌が「特集:伊藤整の新居」を写真付きで掲載したという。
私は都下の田無に生まれ、小学校低学年に中野区鍋屋横丁へ引っ越した。著者の幼年期の生活空間とほぼ重なるまちで成人するまで過ごした。昭和10年当時の鍋屋横丁界隈の絵地図には、私が子どものころ――高度経済成長期――にあった商店の名前が載っていて懐かしい。本書全体に感じることは、あのころのまちには「ぬくもり」があった。「商店街の崩壊」が叫ばれて久しいが、人々の息遣いを感じられないまちになってしまったことが一番問題なのではないだろうか――と本書を読みながら考えた。
鍋屋横丁は新宿から歩いても30分ほどの青梅街道沿いの商店街である。にぎわいのある商店街だったが、私が中学生のころにあった商店の8割は、いまはない。廃業し、代替わりしている。昨今はスーパーやコンビニ、チェーン系の持ち帰り弁当店などが繁盛している。
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また、交差点に都銀の2店舗、その隣に最近高層マンションが建ち、1階を鍵付き玄関と駐車場に使うなど、商店街の連続性が断ち切られてしまった。
一般に商店街は確実に時間をかけて新陳代謝しているが、鍋屋横丁のように、まちから「ぬくもり」が消えてしまうように建て替わってしまうのは淋しい。それでも代を重ねて残っているのは和菓子店や漢方薬局、生花店などである。いずれも店舗に併設し、仕入れたものに幾分かの付加価値を加える小さな作業場を持っている。ショップである(英語辞典のshopには「店」のほかに「仕事場」「工場」の意味が出ている)。ショップが多いとまちに個性が生まれ、商店街が生き長らえるのではないだろうか。
たまたま鍋屋横丁について触れたが、あの時代には全国のどこの商店街にも同じような「ぬくもり」があった。団塊の世代以上ならばきっと、だれもが著者の追憶を通してわれわれが喪失してしまったまちの「ぬくもり」を追体験できるはずである。
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